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Life is a gamble.

最近すごく眠いです。

海外ドラマを2話見て、あと1話は聞きながら寝るという習慣できていたんですが、
ここ最近は1話も見れずにおねむしてます、わたしです。


誰にも「すごく眠い時期」ってたまにあると思いますけど、
そういうときは「新しいことが始まる前兆」らしいですよ。

動き出すための充電期間という感じなんでしょうか。



さてさて、

最近は眠いだけじゃなく、オカルト関係の本ばっかり読んでいます。

加門七海とかのですね。


昔はこういう本を読んだら、
「一人でトイレにも行けないや」「鏡の中に誰かいたらどうしよ。顔を洗うのが怖い!」とかなってましたが、

もうそういうのはあんまりなくなりました。

怖がるのも結構疲れますからね。



で、きのうちょっと考えてたこと。


まあ、この手のことはよく考えますが、「人生は初めからすべて決まってるのか、どうか」ということ。

よく、「こういうふうになるように最初から決まってたんだ」っていう言い方する人いるでしょ。


それに違和感あるんです。



わたしは「決まってはいない」と思っていますので。

いくつで結婚するとか、
いくつで死ぬとか、

そういうことは別に決まってはいないと思います。


だって、決まってるかどうか、誰も証明できないから~。


(オカルト関係は「誰も証明できない」という理論であやふやにするのが一番)


それに、わたしが縁あって見てもらった霊能者も
「こうしたら、ああなる。あれしたら、こうなる」バタフライエフェクト的なみたいな見え方らしくて、

未来は自分の行動や考え方によって、いくらでも変わるよー、って言ってたので。

(これは言い訳にも聞こえるのですがね)





ただ、だいたいのラインは決められているのかも……とは思います。


例えば「芸術的な仕事が向いてるのか、職人的な仕事に向いてるのか」とか、
「早く結婚したほうがいいのか、遅く結婚したほうがいいのか」とか。


まあ、生まれ持ったセンスとか、性格で決まるっていったらそうなんですけど、

本人がしたい、欲しい、なりたい、と思っても、実現できないことって、どうしてもあるでしょ。


逆に言うと、自分では全く望んでなかったのに、なぜかそうなってしまって、結果万々歳ってこと、あるでしょ。


(逆に、無理に自分の我を通してしまったがために、とんでもないことになってしまった……という人もおられるかも……)




なぜかそうなってしまった、と。


で、そこで運命的な出会い、なんか経験しちゃったりして。


「神のお導き」的な。



でもそれを「初めから決められていたこと・決まっていたこと」って片付けるのは安易すぎるんですよね。


線路はあったけど、途中、二股、三股に分かれるところでは、サイコロ振ったりしながらここまで歩いてきたんです!

ってね。



わたしが思うに、世の中にいる成功者、超ラッキーボーイ、ラッキーガールたちは、
このサイコロの振り方が上手なんじゃないでしょうか。

これだ、っていうのにピタッ! っと合わせることができる、みたいな。

一種、超能力者。


時代の流れを読む力も、超能力といったら超能力。



あそこであれ選んで正解だったんだわー、

あそこであれ選んだのがまずかったんだわー、ってありますでしょ。


そこだと思うんですよね、人生で大事なのは。



だいたいのところは決まってる、というか、流れはあって、そこに上手に乗れるか、乗れないか。

乗れなかったら乗れなかったで、その道でちゃんと修正できるか、できないか。



こういうふうに言うと簡単そうなんですけどね。

そうじゃないから難しい。





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自分を舐めるなよ。

まだまだそんなに長く生きているとはいえませんし、言いたくもありませんが、

これまでの人生を振り返ってみると、
いろいろなことがあってその半分以上が落ち込むことだったりしたわけですけど、


わたしって意外と生命力が強いなあ~。


体力的なこともそうですけど、精神的な面は自分が思っているよりもはるかに強い。


あんなことやこんなこともあったのに、自分は今でもこうしてここで生きている。



「あー、もう人間やめたい……」。


そんなふうに思うことも何度だってあったのに、ちょっと日にちが経つと、なんとなく立ち直っている。


それを何度も繰り返しながら、どうにかこうにかここまでたどり着いた。


みんなそうです。



わたしはまだ何も成し遂げてなくて、何者でもないですが、
そんなちっぽけなアリのようなわたしでさえ、過去のわたしを振り返ると、

よく頑張ったよ、お前! とほめてやりたくなります。


みんなそうです。



年間の自殺者が3万人を超えている、今の日本。


人それぞれおかれている環境も違うし、考え方も違うし、助けてくれる人・相談に乗ってくれる人がいるかいないかもあるし、簡単には言えないと思うし、言いたくもないんですが、


今後もしも何かがあって、

「もうどうすることもできない」とか、
「自分さえいなくなったら、物事全部うまくいくんじゃないか」とか、

そんなことを思うこともあるかもしれないけど、

わたしは、どうにかこうにか踏みとどまる術を自分で持っていたい。


例えば「みうらじゅんはいつ見てもウケるな~」とか、
「この本読んだらちょっと現実逃避できるんだよな~」とか、

そんなちょっとしたことでいい。


感情とか気分とかは、ほんとそのときになってみないと分からないし、
自分でさえコントロールすることなんかできないんですけど、


今のわたしが過去の自分を振り返って思う、
その「意外な強さ」とか「意外な踏ん張り」は、きっと未来のわたしにもあるはずだと思うんです。


自分が思ったよりも「自分は弱かった」とか、「想定以下」なんてことはないと思うんです。



わたしはする前から「無理」って言うことが嫌いだし、
そんなことを言う人は完全に見下す質です。


だからこそこれからの自分に何があっても、それを無理だとは言わないし、
もしもとんでもない困難が立ちはだかったとしても、放棄したりはしたくないです。



そのときにならないと分からないのは重々承知です。

でもこれは覚悟であり、宣言です。


また何年か経って一つのタームを終えたとき、

「よし! よく頑張ったね」と自分で自分をほめてあげたいだけです。


それだけです。



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ペルソナ

「ペルソナ」というと、「ペルソナカード」で宝塚を思い出しますけど、宝塚は全く関係ないです。

宝塚は嫌いです。

女が男装した女を見て、何が楽しいのか。



最近は「キャラ疲れ」という言葉があるそうで。

明るい人のキャラを演じていたら、そのキャラが定着してしまって、「本当のわたしはこんなんじゃないのに!」というストレスがたまってしまう、と。


だったら最初っから素の自分でいればいいじゃん。


でもそうはいかない。

嫌われないように、生意気だと思われないように、性格悪い人だと思われないように、仲間はずれにされないように、みんな「仮面」をかぶる。


疲れるね。


お気持ち、お察しします。



わたしは、正直今の生活ではあんまり仮面はかぶっていないです。
(二重人格といいながら、仮面はかぶってない。矛盾してますね。)

思い返しても、これまであんまり仮面はかぶってないです。



小・中・高・大、どこでも仮面はかぶってなかった感じです。

だから小・中では仲間はずれにさたことが何回もあります。


「あいつ、生意気じゃね?」みたいに。


小・中ぐらいの女の世界ってのはかなりやっかいで(高校生・大学生になってまで仲間はずれ・いじめをする女がいるところはたいがい程度が低い)、

中心にいる性悪女に媚売らないと、即刻「仲間はずれの刑」に処されることになるのは、みなさんご存知だと思います。


でもわたしはそういうことができない・したくないという性格なので、一切媚が売れなかったんです。

だから何回も仲間はずれにされました。


今まで一緒に帰ってた子に急に無視されるようになったり、教科書に落書きされたり、上履きを隠されたりしました。

まあ、そういうのは「いじめ」とは言いません。
ただの仲間はずれです。


その仲間はずれは1週間もすればターゲットが別の子に移るので、ただ我慢すればいいことです。



こういうことは女の子だったら大抵みんな経験しています。

だから女は強いんです。

男性諸君、分かりましたか。



たぶんそのころに「仲間はずれにされたくないから」という気持ちで「媚を売る仮面」をかぶることを知ってしまった人や、

「この子は仲間はずれなんかされたことないだろうな」と思われるために、「明るく元気で人気者の仮面」をかぶることに慣れてしまった人が、

成長してからも「仮面」をかぶり続けているのではないか……と勝手に思っています。


男性でも、ものすごく周りを気にする、周りに気を遣う人が、本当の自分と仮の自分の狭間で苦しんでいるような気がします。


職場でランチの輪から外されたくないから。
ママ友が一人もいないのは恥ずかしいから。


はあ?



運よくわたしは、その後「仮面」をかぶる必要のある環境におかれなかったので、変なストレスをためずにすみました。

大学でもバイトでも、ほぼ素のまま。


「はあ?」みたいな態度。

「お前ら、ほんとは仲悪いんだろ?」と言ってしまうKYぶり。


そればっかりじゃないですけどね、まとめたらそんな感じ。


だから仲のいい男の子とかに、「お前さ、今の性格を直そうとか、ちょっとかわいらしくしようとか思わないわけ?」とか言われ……。


もちろん「なんでわたしが!!」ですよ。

なんでわたしが性格を直さないといけないのか、なんでわたしがかわいくならないといけないのか!


みんなそのくらいでいてほしいのに。

こんなわたしで何が悪い! って言ってほしいのに。


そしたら変な気を遣わなくてすむのに。
ストレスためてうつ病なんかにならなくてすむのに。


なんか「北朝鮮に爆弾落とせばいいのに!」って言うくらい短絡的な発想かもしれませんけど、

ほんとにそう思う。

みんなありのままでいてほしい。


そりゃ、わたしみたいに性格悪いやつは、躓いたりしながら「やっぱ、ちょっとは更生しないとな」とは思わないといけないけど、

「本当はね……」とか「現実逃避したい」とか、そういうのは聞きたくない。


確かに「お前、よくそのままで生きてこれたな」っていうやつは、どうぞご勝手にお地獄にお落ちになっていただきたい。


でも、それ以外の一生懸命生きている人、人畜無害の人たちは素でいてほしい。

気がねなんていらない。



別に変な性癖があってもいいじゃない。

大食いで早食いでもいいじゃない。


家に帰って奥さんに暴力振るわなかったらいいじゃない。

にっこりしながら万引きしなかったらいいじゃない。


人に嫌われたり、仲間はずれにされることって、怖いけど、
何かひとつ吹っ切れることがあったら、

そんなこと、実はどうでもいいことなんだよねー、って思えるようになるかもしれない。


たくさんの人に、早くその時が来てほしい。

そう切に願います。




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偶然の一致

最近、ある作家の本ばかり読んでいます。

内容もよく見ずに暇つぶし目的で買った本がすごく面白くて、一回でその作家のファンになってしまいまして。


で、好きになるとその人のすべてを知らないと気がすまないという性分ですもので、最近は週に1冊ペースでその作家の本を読んでいます。



何がシンクロしてるのかというと、

その作家の本を読んでいると、出版されたのはずっと昔だったりするのに、

今の今、自分が考えていることとか、最近知ったこととか、ちょっと知ってる土地とか、名前とか……

そういうものが、ページをめくるとそこにある。

一つの作品だけじゃなくて、だいたい全部にわたって、そういうことが結構ある。



別にこじつけで言ってるわけじゃないです。

妄想癖も、自分ではないと思っています。



でもそういうことって、誰にもたまにあるじゃないですか。


鼻歌歌ってたら、次の瞬間にその歌がテレビとかラジオとか流れてくるようなことが。
誰かのこと考えてたら、次の瞬間にその人から電話がかかってくるようなことが。


それと一緒で、最近はその作家の作品とわたしの頭の中が、なぜかシンクロしています。
時を場所を越えて。



考えようによっては、この世には「縁」というものがあって、
よくわからないけど、なんで? っていうところで、誰かとか何かとつながっていたりする。

人だけじゃなくて、物、場所、いろいろなものと。


そのひとつひとつに意味はないのかもしれないけど、

もしそこに意味を見出すとしたら、ただの「偶然」なんじゃなかろうか。


そう言ってしまうのが、一番簡単。

だって運命の赤い糸なんて、誰にも見えないんだから。



会えるはずなかった人にたまたま会ってしまうのも、「ただの偶然」。

知らなかったことをたまたま知ってしまうのも、「ただの偶然」。


だから「なんでわたしがこんな目に!」って災難に遭っても、

「偶然なんだから仕方がない。わたしがいけませんでした。すみませんでした」と思わないといけない。


思わないけど。



だから例えば自転車に乗ってて、自分は全然悪くないのに車に撥ね飛ばされちゃうのも、偶然。


でもそこで怪我して病院に担ぎこまれて、かっこいいお医者さんといい仲になってしまえば、
偶然の結果として車に撥ね飛ばされたことも、「縁」に思える、と。


「ま、車に撥ね飛ばされることがなければ、この出会いもなかったんだよなあ。跳ね飛ばしてくれた車、サンキュ!」になる、と。


そういうことがあればいいんですけど、まあないので、わたしは車に撥ね飛ばされたくはありません!!




最近「アカシックレコード」とかいう言葉がちらっと流行ってますね。

未来のことを予知する人とかいますよね。


そういうオカルティックなこと好きですけど、正直うそっぱちであろう。



自称霊能者、もしくは霊能者とは言わないけど、自称「わかる」人に縁あって見てもらったことありますけど、

その人たちの言うことに捉われたままだったら、ものすごく危険です。

(あくまでも前提として、その人たちが「当たる」と言われる人たちと仮定して。)



例えば「××年ごろに、○○で△△みたいな人と出会う。その人と結婚するよ」「そして□□に住むよ」とか言われて、

「はい、そうですか! じゃあ、それまでわたしはじっと待ってますね!」なんて言えるわけないし。


予知とか予言とかって、
「そうなったらすごいよね。本当はそんなふうにはならないと思うけど」
っていう壮大なエクスキューズを持って聞かないといけないもんで、
真正面から捉えちゃったりしたら、それこそ一生を台無しにする可能性大!



すべては偶然の一致。

最初から決まってることなんか、何もない。


偶然の一致の中からどれを抽出して、どう消化させるか。


結果として悪になるのか、良になるのか。

ようは過程ではなく、結果の如何。



だから良い結果を生みたいんであれば、過程である今をごちゃごちゃ言っても仕方がないってこと。

じゃあ、どうしようか。

どうやって収拾つける。


そう考えることが第一。



なんか長く書いた割に結論があいまい。

偶然読まれた方には申し訳ないかぎりです。



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ニルヴァーナ

「悟りたい」「悟りとは何か」、そういうことを考える人が多い時代ですね。


山の中で1泊2日で修行したりね。

ただ、流行のことでもそれなりのことやってれば自分の弱みどうにかできるだろう、考えることが面倒になったから理由をつけて、という浅はかさ。

自己満足。


そんなことしなくてもいい。

毎日家の中、全部掃除機かけるだけで十分な修行になると、わたしは勝手に思います。

できないので。


掃除でも、一生懸命してたりしたら「無」になりますよね。

そういうのも一種の「悟り」ですよね。迷いも何もないんだから。

でもただの一時のなので、そんなに意味はないかもしれません。




が「悟りたい」、私も少しは思いますけど、なんか悟ってしまったら、この世のありとあらゆるものが楽しくなくなりそうで、結局は別にそんなことどうでもいいじゃないか、という結論になってしまいます。


だってさ、煩悩を消すって、どうします?

世の中にはいろいろいっぱい楽しいことあるのに、そういうこと全部煩悩だ! って忘れちゃえます?

無理でしょ。



瞑想している自分とか想像すると、「いやいや、ごめんけど、ちょっと恥ずかしいです」となりますし、

瞑想ったって、低酸素状態になってトランスしちゃうんでしょ? すごい! トランス、すごい! と、そういうサブカルっぽい考えしかできない。


ていうか、もしもその「悟りの境地」とやらに自分が入ったとしても、たぶん自分では分からないと思う。


「先生! わたくし、ただいま悟りを開いてしまったであります!」となるのか、

それとも「君、君が今いるところが悟りの境地なのだぞ」となるのか。


結局は、自分が「たぶん悟りの境地って、こんな感じじゃないの?」と思うところに、
なんとなく自分がいるような気がする、というのが悟りではないのか。



「大人になる」っていうのと一緒じゃないんですか。

25くらいになって、「なんとなく自分の考えって大人っぽくない?」「昔はこういうことできなかったよね」となって、自分が大人であることを自分勝手に認定する、と。

でもほかの人に言わせると、「いや、違うよ」と。


悟ってないわたしはそんなふうに思ってしまうのですが。


悟りもそういうものなんじゃないかなあ、とわたしは思ってしまいます。



イメージとして、
もしも悟ってる人と話すことがあって、
「じゃあ、××さん、あれについてはどう思いますか?」とか聞いたら、

「すべては無である。この世のすべては無に帰るのである。だからなんの意味もない」とか言われそうで、
なんか面白くなさそうじゃないですか。


こっちとしては、「こいつ、悟ってるとか言ってるくせになに訳の分からないこと言ってんだよ!」か、
「さすが、悟った人は普通の人間が考え付かないような突飛なことを言うもんだ」となりたいわけで。


「悟った人」は、あくまでもこっち側にいてほしくて、あっち側にいかれたら、そりゃ単なる変人でしかなくて。

でもそんな「悟った人」はたぶんいないと思うわけで。


「悟った人」に会ったことがないのでこういうことを言います。


ま、結局は煩悩なんて今のこの世の中にいる人間は消し去ることなんかできないし、
できるとすれば将来のことを悲観したり、不安に陥ったりする、その「恐怖」から逃れることしかできない。

煩悩=恐怖、くらいで考えるのが一番手っ取り早いんじゃないですかね。


何が悟りの境地なのか、それは個々それぞれが勝手に決めればいいことなので、
わたしの場合はこういうことになっています。

怖がりなもんで。



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便りがないのは元気な証拠。

元気です。

あんなに寒かったのに風邪のひとつも引いていません。

自分って、何気に強いな、と思っています。



まあ、それにしても書くことが特にありません。

と言っても、このブログはわたしの心の拠りどころ的存在です。



でもだからって、毎日毎日書くことなんかないんです。

正直、ないんです。


「今日は××に行った」とか、
「今日は××を作った」とか、
「今日は××に会った」とか、

そういうことはほかのたくさんの皆さんが書いてらっしゃるので、わたしの仕事ではありません。



ここに書くことは、この気持ちはいまのうちに書いとかないと! ってことや、
たまたまそのとき読んでた小説タイトルから連想したこと、
たまたまラジオから流れてきた曲から思い出したこと、
むかついたからどうしても誰かに聞いてほしい、知ってほしい! ってことばかりです。


――ってことは、今は何もなく平穏無事に暮らせている証拠です。――



だからこそ、

へ~、去年の今日のわたしって、こんなこと考えてたのか、ってこともあります。


でも恥ずかしいーとか、そんなこと今は全然考えてないよ、バカじゃん、ってことはありません。
(反省することはありますけど、思ってることはあんまり変わりません。)



芸術家、ミュージシャンの方々は、自分の作品でも昔のものは「恥ずかしい!」と思う人が多いそうですが、わたしはそうじゃないです。

(なぜなら芸術家でもミュージシャンでもないから。)



同じものを繰り返し読んだり聞いたりするのが猛烈に好きだから、自分の書いたものも繰り返し読むことに耐性ができている、んだと思います。


というか、書くときに「後で自分が読んで恥ずかしくないように書こう」というのが一番の基本なので。



「見ず知らずの方々に読まれても恥ずかしくないかな?」ではなくて、

なぜか「未来の自分に恥ずかしくないか」。


自分怖がりすぎ。


確かに自分が怖い、かも。



ちょっと前のラジオで、伊集院光が
「相談したい人って、どんな人よりも、何年か先の未来の自分」というような趣旨のことを言ってました。


何年か先の未来の自分って、当然のように今の自分の進化系で、今の自分のこと全部知ってるわけでしょ。
だからどんなに知識や経験がある人も、未来の自分には勝てない、と。



もちろん未来の自分に相談相手になってもらうことなんてできないから、

その逆手を取って、未来の自分に怒られないような自分でいれば、まあまあちゃんと生きていけるかなあ、と思っています。


でも何かあって、未来のわたしがとんでもない××××女になってたら、今のわたしの努力はパーになっちゃうんですけどね。


まあ、そうならないように自制心はちゃんと持っていようと思います。






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